うわさの山形・田舎隠れそばの店

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 中山道は江戸時代の五街道の一つで、江戸の日本橋を起点とし近江の草津宿(現在の滋賀県草津市)までを結ぶ129里の道のりでした。最終的な終着の地である京都三条大橋へ向かうには、草津宿から東海道を歩むことになります。
 当店は中山道沿いにあり、赤坂宿まであとほんの少しの位置にあります。
 みなさまに中山道赤坂宿をより知っていただくために、歴史のなかのほんの一部をご紹介したいと思います。

 

 1.赤坂宿と和宮皇女

中山道といって真っ先に思いつくのは、やはり土地柄もあってか、皇女和宮さまの輿入れでしょうか。
和宮さまは弘化3年閏5月10日(1846年7月3日)、仁孝天皇の8番目の皇女として生まれました。
兄は江戸時代最後の天皇である孝明天皇、その子が明治天皇で、明治天皇からみれば叔母にあたります。
和宮さまは6歳の時に有栖川宮家の長男熾仁(たるひと)親王と婚約していましたが、14歳のころ、政略結婚により徳川家へ嫁ぐことになってしまいました。
初めのうちは縁談を拒絶していたものの、帝(孝明天皇)の苦しい胸の内を察し、結婚を承諾したといいます。

幼少の頃からの婚約がなくなってしまい、しかも政略結婚によって見知らぬ東国の地へ下らねばならない和宮さまの心の寂しさは計り知れないものがあったことでしょう。
岐阜県大垣市赤坂町に今も残る「お嫁入り普請」という建築様式は、そんな和宮さまのお心を慰めようと造られたと言われています。
「お嫁入り普請」とは、本当は1階建てなのだけど見た目は2階建てに見えるように作った建物のことです。
赤坂地区では、「1階建ての建物ばかりでは田舎めいて見えるので和宮さまに失礼である。しかし急場のことですべて2階建てに建て替えるほどの時間の余裕もない。せめて見た目だけでも2階建てに 見えるように造り替えて和宮さまに失礼のないようにしようとした」と語り継がれています。
宿場町が1階建てばっかりだったら、和宮さまが「私はなんて田舎に来てしまったんだろう」と落胆されるだろうから、少しでもよい建物に見えるように細工をしたわけです。

さて、和宮さまが嫁いだ夫・徳川家茂はたいへん妻思いの人で、そんな夫に和宮さまもうち解けていきました。
江戸入城から5年たった頃、夫・徳川家茂は長州征伐のために出陣しますが、その途中に大阪で亡くなってしましました。遺骸とともに和宮さままの元に届いたのは、おみやげの西陣織でした。
和宮さまが悲しみに暮れて詠まれた歌は
   空蝉の唐織ごろもなにかせむ 綾も錦も君ありてこそ
  (おみやげに所望した西陣織の衣も、最早なんの役に立つでしょう。
   綾や錦の美しい織模様も、あなたが生きておられればこそのものでしたのに。)
和宮さまの悲嘆にくれる思いがひしひしと伝わってくる歌です。

この年には、和宮さまとともに江戸に下向していた母・勧行院、兄・孝明天皇も亡くなっており、和宮さまは1年あまりの間に母・夫・兄を次々と失ったことになります。
そんな悲しみの中、和宮さまはこれ以後徳川家のために精一杯の努力をされました。
大政奉還後は、15代将軍徳川慶喜の助命を嘆願されるなど、徳川家存続に尽力されました。

興味のある方はこちらのページがわかりやすいです。
皇女和宮について
千人万首−よよのうたびと−より 和宮
   

 2.赤坂宿と関ヶ原の戦い

関ヶ原(現在の岐阜県不破郡関ヶ原町)で繰り広げられた関ヶ原合戦の最終決戦に至る前、東軍徳川家康は赤坂(現在の岐阜県大垣市赤坂町)にある岡山に本陣を設営しました。

この「岡山」は今は墓地となっており、お盆には赤坂地区のたくさんの人が墓参りに訪れるところですが、不思議なことに赤坂地区でそこを「岡山」と呼ぶ人はいないのです。
地図には「岡山」と書いてあるにもかかわらず、です。
それではなんと呼ぶかというと「お勝ち山」(おかちやま)または「勝山」(かちやま)と呼ばれています。
赤坂地区では、徳川家康が陣を構えて勝ったから「お勝ち山」と呼ばれるようになったと語り継がれています。
しかし大垣市赤坂商工会発行のパンフレットには、「天下分け目の合戦で勝利した家康は岡山の名を勝山に改めたと伝えられている」と書いてあります。
事の真偽はともかく、400年以上にわたって地図には「岡山」が、呼び名としては「お勝ち山」の名が語り継がれているという興味深い地元のエピソードです。

おかちやまを上る坂道の下からみた写真
道路の左手の丘がお勝ち山、道路を奥に向かって上っていくと墓地があります。
この坂道は春になると見事な桜が見れます。

お勝ち山の麓には安楽寺という古刹があります。
安楽寺は聖徳太子の創建と伝えられ、徳川家の三ツ葉葵の紋を許された由緒ある寺院です。
将軍家と同じ紋が許されているというのはこれはすごいことですね。
家康がそれほどまでに恩義に感じての恩賞なのでしょう。
お勝ち山に陣を構えたというのも、もしかしたら、そこに安楽寺があったからかもしれませんね。

このお勝ち山のほど近くには「お茶屋敷跡」(通称:ぼたん園)があります。
今は史跡としてよりもぼたんの名所としての方が有名で、毎年ゴールデンウィーク頃が花の見頃です。
しかし元々は将軍専用の休泊施設で、慶長9年(1604年)に信長ゆかりの「岐阜御殿」を移築して造られたものであると言われています。

お勝ち山の墓地の脇にある道を上っていくと、頂上まで登ることができます。
試しに上ってみると、たしかに見晴らしがよく、大垣一円を見渡すことができます。
ここで家康はどんなことを考えていたのでしょうか。
   

 3.赤坂宿本陣跡と道標

赤坂宿には本陣といって、江戸時代に大名や旗本などが宿泊するための旅館が設置されていました。
大名専用旅館だったら大変繁盛したかというとどうもそうではなく、むしろ名誉ある稼業であったらしく、江戸時代後期には藩財政の悪化に伴う謝礼金の減額などによって経営破綻する本陣もあったようです。
赤坂宿の本陣は、現在は建物等は残っておらず、公園として整備されています。

赤坂本陣公園の写真
赤坂本陣公園の入り口から。

皇女和宮史跡保存会の碑文の写真。クリックで拡大
皇女和宮史跡保存会の碑文(平成元年10月25日建立)(クリックで拡大)

案内看板の写真。クリックで拡大
赤坂周辺の略図を示した案内看板(クリックで拡大)
4番がお茶屋敷跡(ぼたん園)で、その南(地図では下の方)のあたりにお勝ち山があります。
右の方にある川が、杭瀬川の戦いで有名な杭瀬川です。ただし杭瀬川の戦いが行われた場所はこのあたりではなく、もっと南の方だそうです。

本陣跡からすぐ近くのところに、分かれ道を示す石灯籠の道標が今でも残っています。
道標は、そこが西国三十三霊場最後の地として知られる谷汲山華厳寺へ続く谷汲街道の起点であることを教えてくれます。
   

 4.赤坂宿と金生山

赤坂は、金生山と杭瀬川の町です。
金生山は、きんしょうざん、または かなぶやま と読み、地元小中学校の校歌にもなっている地域に根付いた山です。
江戸時代には杭瀬川は海運が盛んで、かつての赤坂港には数百隻の船が出入りしていたそうです。
現在赤坂港跡とされている場所は、現在の杭瀬川よりもやや西にあり、一応小さな川が流れています。
それというのも江戸時代と現在とでは杭瀬川の流路が変わっているからです。
赤坂港跡の横にある小さな川が、当時の杭瀬川です。
当然今は港はありませんが、往時を偲ぶ常夜灯が残されているほか、赤坂港会館があります。
赤坂港会館は明治時代に赤坂にあった交番を復元した建物で、赤坂の歴史や古い写真などが展示されており、だれでも無料で見学することができます。

赤坂港跡の公園の写真
赤坂港跡として造成された公園。右の方にある建物が赤坂港会館で、左の方に常夜灯があります。

赤坂港会館の写真
赤坂港会館。赤坂の歴史についての展示をしています。

赤坂港会館の入り口の写真
赤坂港会館の入り口

常夜灯と港会館の写真
常夜灯と港会館

金生山の歴史は古く、麓の子安神社は推古天皇の創建と伝えられています。
子安神社のお祭りが赤坂祭で、毎年4月10日でしたが現在は近くの日曜日に行われています。
赤坂祭の起源はやはり古く、「赤坂町史」によれば1200年続いているとのことです。
山の中腹には国宝・明星輪寺があって赤坂地区では「こくぞうさん」と呼ばれ親しまれています。
鎮座まします虚空蔵菩薩は、伊勢朝熊山の朝虚空蔵、京都嵯峨野の昼虚空蔵とともに美濃赤坂の宵虚空蔵と呼ばれ、日本三虚空蔵としても有名です。
毎年4月13日は“はつこくぞう”というお祭りの日で、前日の12日の夜にお参りするのが地域の風習になっています。

赤坂は古くから石灰の生産でも有名で、今でこそ外国産が増えてきたようですが、かつては岐阜県が石灰生産量日本一でした。
そのほとんどが赤坂の金生山から産出され、赤坂港でも石灰が運ばれていたようです。
赤坂地区は石灰を生産する会社が多くありますが、大理石産業が盛んなことでも有名です。
国会議事堂の大理石も赤坂産のものが使われたと聞いています。
今でこそ不況のあおりか、かなり工場が少なくなってきましたが、それでも赤坂一円の中に大理石を扱う会社がいくつもあります。

金生山は、特徴的な化石を産することでも有名です。
多く産出するのはフズリナ、ウミユリで、このあたりがかつて海だったことを表しています。
しかし特筆すべきは、金生山のそれは非常にサイズが大きいと言うことです。
一般的なフズリナの化石といえば直径数ミリ程度ですが、金生山のものは1cm近くあるものがざらにあります。
ウミユリにしても同様で、果たしてこの付近の海は栄養状態が良かったからという説を聞いたこともありますが、なぜ金生山の化石が大きいのかは解明されていません。
   

 5.赤坂宿(のとなりの青墓宿)と照手姫

照手姫とは、小栗判官の物語に登場する女性の名前で、小栗判官こと小栗満重と、盗賊一家に仕える照手姫の間の恋物語です。
小栗判官や照手姫というと現代ではあまりなじみがありませんが、伝承としては多く残っており、浄瑠璃や歌舞伎などにも多く脚色されて残されています。
それでは、物語の一部をご紹介しましょう。

1415年、上杉禅秀の乱の際に、小栗満重は管領足利持氏に攻め落とされ、落ち延びる。
その途上、相模の国に10人の家来とともに潜伏中に横山大膳の娘・照手姫を見初め、小栗は結婚の約束をする。照手姫は由緒ある武士の子であったが、幼くして父母に死に別れたために横山に仕えていた。
小栗を快く思わなかった横山大膳は、酒に毒を盛り家来もろとも小栗を毒殺してしまう。
悲しみのあまり屋敷を抜け出した照手姫を、横山は不義の罪と称し相模川に沈めようとするが、からくも漁師に助けられる。しかしその美しさから漁師の女房に疎まれてさまざまな虐待を受け、ついには六浦浜で人買いの手に売られてしまい、各地を転々とする。
一方、一度は命を失った小栗であるが、閻魔大王の計らいで地上界に復帰する。ところがその姿は異形の餓鬼阿弥の姿で、皮膚病にかかっており、歩くこともままならない。幸いに藤沢の遊行寺の大空上人の助けにより、地車に乗せられて東海道を西進する。
小栗を乗せた車は大垣青墓宿で偶然照手姫と出会うが、二人はお互いに気づかないものの、こころ優しい照手姫の手に引かれ、小栗を乗せた車は大津までたどり着く。病はさらにひどくなるが、遊行上人の導きと照手姫はじめ多くの人々の手助けによって熊野まで辿り着き、温泉の薬効を得てついに病気に打ち勝つ。
復活した小栗は新たに常陸の領地を与えられ、判官の地位を授けられる。常陸に帰った小栗は悪党横山を討ち果たし、さらには美濃の青墓で下女として働いていた照手姫を見つけ出し、ついに二人は晴れて夫婦となる。
・・・それから二人は、幸せに暮らしましたとさ。

青墓宿で照手姫は下働きをしていたのですが、さんざんいじめられてつらい思いをしました。
そのときに使っていたと言われている井戸が、青墓地区の中山道沿いにあります。
え? 赤坂宿の話じゃなかったのかって?
お気づきになりましたか?(笑)
そうです、おとなりさんの青墓宿にまつわる物語です(^^;
青墓地区だって、赤坂中学校下ですから、広い意味での赤坂に含まれるということで・・・

おふざけはともかく、まじめな話をば。
神奈川県藤沢市にある遊行寺近くの長生寺には照手姫の墓が伝えられています。
遊行寺のホームページによれば、上記のストーリーとは少し違いがあるようですが、そういう曖昧さは浄瑠璃や歌舞伎の物語として脚色されていった結果ではないでしょうか。
しかし、上杉禅秀の乱に際して足利持氏が小栗満重を滅ぼしたのは史実であることも考えると、この物語にはなんらかの背景となる史実があり、その内容を当時の時代背景にあわせて脚色されたものが現代まで伝わっているのではないかと思います。

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